岐阜県文化財保護協会 -郷土の文化財を守り、子どもたちに伝えましょう-

お問い合せ先

058-214-9112

岐阜県岐阜市藪田南5-14-12 岐阜県シンクタンク庁舎5階

信州の文化財を訪ねて宿泊研修会を実施しました

2018年7月3日

平成30年度文化財宿泊研修会(信州の文化財を訪ねて)

 

6月27日、5時30分に起床し、朝食を食べ、私の集合地である中濃庁舎近くに行くため6時45分に家を車で出発。外は雨が本降り、運転がしにくいなかを7時45分には美濃市中濃庁舎に到着。

その頃、名鉄観光バスは出発地の大垣ヤナゲン前を少し遅れて出発。岐阜・美濃・関で会員が乗車、総勢38名で東海環状道から中央高速、長野道を通り目的地の信州に向かった。バスの中では、最初子安会長、伊縫研修委員長の挨拶の後、船戸事務局長から長野県やホッサマグナ、今回の研修地の説明があり、退屈することがなくバスは走った。すると、雨も小降りになり、さい先の良い研修となった。駒ヶ根サービスエリアで休憩後、いよいよ研修の始まりである。長野県は廃藩置県後、北の「長野県」と南の「筑摩県」とに分かれていたが、明治9年8月21日に政府は筑摩県を廃して飛騨は岐阜県に戻して、信州の筑摩県分を長野県に統合した。このことが現在でも長野県の人々の意識の中にはあるらしい。また、扇状地や断層の話などを事務局長から説明を受けているうちに、最初の研修地松本市に到着。松本城前の四柱神社境内にある「手打ち蕎麦・こばやし」で昼食。

■松本城

昼食後いよいよ国宝松本城の研修開始である。大手門の前でガイドの小岩井さんと待ち合わせ、内堀から松本城の概要を聞いた後、晴れていれば北アルプスの山々と城郭のコントラストがとても美しいとの説明を受けた。その場所で全員で記念撮影をした。

松本城は、戦国時代に信濃守護家小笠原家が林城を築城しその支城として深志城を築城したのが始まりといわれ、現在の大天守は5重6階で、北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面には辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守である。

明治初年に競売にかけられ、解体されそうになった天守閣を、市川豊造氏ら地元の有力者が買い戻し、城主の城から市民の城として守ったことが、今日の国宝の城につながっている。なお、現在国宝に指定されている城は、この松本城と姫路城、犬山城、彦根城、松江城の5城しかない。

■善光寺

松本城を後にし、バスは長野道をとおり、長野市に入る。長野市は県庁所在地であるとともに善光寺の門前町として、周辺観光地への前線としても有名な市である。善光寺には約30分遅れの午後3時15分頃に到着。駐車場では文化財課の足立さんの出迎えを受け、善光寺境内に入ると善光寺鏡善院の住職さんが出迎えていただいた。

善光寺は、無宗派の寺院で山号は「定額山」という。山内には天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。本尊は一光三尊阿弥陀如来(国宝)で、本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている。7年に1度のご開帳には、金銅阿弥陀如来及び両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分神として公開されている。創建以来約1400年の長きにわたり、阿弥陀如来との結ぶ縁の場として、民衆の心の寄り処として深い信心を得ている。それは、内々陣の内側から奥へ進むと真っ暗な回廊を通り中程の極楽錠前にあたり、ご本尊と縁結びをする道場で、「お戒壇めぐり」の効能かもしれない。

私達には時間がなかったが住職さんの熱心な説明と案内によって本堂(国宝)だけでなく、普段見られない経蔵(中央に八角の輪蔵がある、国重文)や山門(国重文)、過去の前立本尊置き場も見学することができ、雨に濡れながら、大変充実した善光寺研修をすることができた。

■浄光寺(雁田薬師)

善光寺を1時間遅れで、本日最後の研修地である浄光寺へ向かった。浄光寺に着くと温和な顔をした住職さんが1時間も遅れて到着した私たちを温かく迎えてくれた。

浄光寺は地域の人々から「雁田のお薬師さん」とよばれ親しまれ、茅葺き屋根で入母屋造りの「薬師堂」(国重文)は室町時代初期の応永15(1408)年の代表的建物である。

薬師瑠璃光如来十二神将・通称「お薬師さま」は、人々の寿命を延ばすことを本願とする仏である。「雁田のお薬師さん」は木造薬師如来坐像(県重文)で、岩座の上に日光・月光両菩薩と十二神将に囲まれており、胎内銘に応永16(1409)年と有り、薬師堂建立の翌年の作である。

参道には小林一茶の句碑「山寺や畳の上の栗拾い」と「大栗は猿の薬礼と見えにけり」が建てられ、境内には1本のロープの上で回転したりバック転したりするスッラクラインがあり、この浄光寺が本部の寺として浄光寺スラックラインパークを運営している。

■湯田中温泉 ホテル椿野

ホテルには午後6時半に到着。部屋に入り、休憩し、温泉に入る間もなく、午後7時から食事・懇親会が始まった。懇親会では、会員の方が「松本城」を詩吟で謡われて、一日の研修が締めくくられた。

■小林一茶旧宅・一茶記念館

翌朝8時にホテルを出発。バスは信濃町にある一茶旧宅を目指す。途中のバスの中で小林一茶の俳句二題「やせがえる 負けるな 一茶 ここにあり」「やれうつな ハエが 手をすり 足をすり」を詩吟で皆さんが唱っていると、信濃町柏原宿の一茶旧宅に着いた。

俳人小林一茶は、柏原宿生まれで、15歳の時江戸に奉公に出て、50歳の時ふるさとに帰り、二度結婚したが、子どもには恵まれず、文政10(1827)年の一茶65歳の時柏原大火に合い母屋を失ってしまった。その後、焼け残った間口三間、奥行き二間二尺の粗末な土蔵に移り住み、その年11月にその生涯を閉じている。この旧宅は雨が降っていたのでバスの中

からの見学であった。なお、この土蔵は、昭和32(1957)年に国史跡に指定された。

土蔵が国史跡として指定されたのを記念して昭和35(1960)年、一茶の墓のある小丸山に開館したのが一茶記念館である。ここでは、一茶の生涯と文学、一茶のふるさと、一茶顕彰などを展示し、あわせて一茶忌全国俳句大会や一茶講座などの一茶や俳句に関する様々な学習活動が行われている所で、俳句に興味のある人達にはたまらない研修地であった。

 

岩松院

信濃町から再び雨天の中を小布施町に戻り、岩松院に向かった。ここは曹洞宗の寺院、文明4(1472)年創建で、本尊が宝冠をいただく釈迦牟尼仏で江戸時代初期に作成されたとつたわる。また、福島正則の菩提寺でもある。

この寺が有名になったのは、ここに葛飾北斎が89歳の時の作品、畳12畳分の大きさで、本堂の天井に描かれている「大鳳凰図」があることである。28日午前10時30分に着いた私達を雨の降るなか山門まで迎えていただいた住職さんからの説明には頭が下がる思いで、大鳳凰図(下記写真)を鑑賞した。

岩松院は一茶ゆかりの寺でもある。境内には「痩せ蛙負けるな一茶これにあり」と言う句を詠んだ蛙合戦の池もあった。

■北斎館と小布施の町並み散策

11時20分、バスは小布施の中心地にある本日の昼食取る場所である風竹堂の駐車場に着いた。そこから歩いて数分の所にある北斎館を見学。北斎館は北斎が晩年80歳代の時スポンサーとなった高井鴻山に呼ばれ、その時に描いた肉筆画、画稿、書簡などの収蔵品を元に開設された施設である。館内に入ると、学芸員の荒井さんに案内と解説をしていただき、北斎漫画など版画を展示してある展示室、肉筆画の展示室、北斎の天井絵が描かれた2基の祭屋台(県宝)展示室を案内していただいた。特に東町祭屋台の「龍」「鳳凰」は北斎85歳の作品、上町祭屋台の「男波」「女波」の怒濤図は北斎86歳の作品と聞いて、会員の皆さんの心を魅了した。

北斎館を出て小布施の町を散策する頃には雨も上がり、暑くもなく風が気持ちよい山中の宿場町の散策となった。

皆さんは思い思いに家族へのお土産お買い、竹風堂で「栗おこわ」の昼食を取り、午後1時20分帰路についた。終着の大垣ヤナゲン前に到着したのは午後8時頃でした。途中バスの中で事務局よりアンケートが取られましたが、それによると全員今回の「信濃の文化財を訪ねて」は満足したという回答をいただきました。(アンケート結果は「濃飛の文化財58号」で報告します。)

お疲れ様でした。